第70回日本病跡学会総会開催にあたって

 昔の話をします。平成5年(1993年)4月2日から3日にかけて、第40回総会が牛島定信大会長のもと開催されました。ある青年がこの学会に参加しました。彼は医師になって5年目のようやく一人前になりかけた精神科医でした。彼の師匠である中井久夫先生がシンポジウムに登壇され、彼の2年先輩である安克昌先生がマリリン・モンローの病跡を発表されるのに合わせて同行させてもらったのでした。
 学会というものに初めて参加した彼は新鮮な感動を覚えました。古今東西の音楽家、文学者、哲学者、画家、精神療法家が次々と取り上げられてその生涯と業績が紹介され、その人物の内奥に迫る考察が展開されました。まるで絢爛な絵巻物を見るようでした。とりわけ、江戸時代の碁打ちが取り上げられていたことに彼は目を丸くしました。これほどまでに自由な、そして大胆な学会があるでしょうか。清々しい気持ちになって彼は神戸に帰りました。
 それからのことも少し書きましょう。
 1995年1月、阪神淡路大震災が起きました。
 2000年12月、安克昌先生がこの世を去られました。
 そしてついに2022年8月、中井久夫先生がこの世を後にされました。
 くだんの青年も、還暦を迎えました。そしていかなる巡り合わせか、初めて学会参加した時から数えて30年後の2023年に、第70回総会を主催することになりました。
 テーマは「新世紀の病跡学」としました。「世」という文字は「十」を3つ重ねた文字であり30年を意味します。「新世紀」とは「21世紀」のことですが、「新しい時代、局面、価値観の始まり」という意味でも用いられます。日本病跡学会は今や新しい時代に突入し、新たな価値観を創出しようとしています。そのことにじっと目を凝らしていきたいと、私の中にいる青年が息巻いています。
 私が生まれ育った高槻という土地は、京都と大阪のちょうど中間地点にある住宅街です。これという観光スポットはありませんが、戦国時代に高槻城の城主であった高山右近が筋金入りのキリシタン大名であり、秀吉を恐れず信念を貫き通してマニラに客死した、高槻の誇るべきバロック的傑物として輝きを放っています。加賀乙彦氏が小説にしています。
 長年住んでおりますと、高槻には京都と大阪の文化が微妙に混じり合っていることがわかります。もとより「京(みやこ)」と、西方交易の玄関口「大坂」との物流の要所として栄えた土地です。多くの人々が西国街道を歩き、高槻・芥川は宿場町でした。また東に流れる淀川を船が往来することも盛んでした。その名残でしょうか、現代でもインターネット調査では京阪神で最も住みたい街ナンバーワンであるというのも高槻市民の密かな自慢です。
 この地に降り立ち、目を凝らし耳を澄ます人があれば、何かしら心地よい出会いと発見があるに違いありません。
 新世紀の風とともに皆様のご来訪を心よりお待ち申し上げます。

第70回日本病跡学会総会会長 杉林 稔